いじめられている同級生を殺すという事件があった。

先生の話すのを聞いて啓子

けに、せっかく叱ってくれた人に対して、感謝するどころかうちの子のことは、放っておいてください!!
おまなどと喰ってかかる親までいるのですから、呆れるばかりです。
わざ不愉快な思いをしてまで、他人のことには口を突っこむまい、でしょう。
だからなおさら、わざとする風潮が強まるのですが、また罪であり、と同時に、相手が子供であろうが大人であろうが、他人の間違った行ないを見逃すことも一社会人として恥ずべき行為であることには自分の子供さえ良い子なら、変わりありません。
母さんだって完璧じゃない

父親から学んだと言っている。


子どもが夢中になる各種のゲーム

>勉強すればホいまはどうだ。他人の子はどうあろうと構わない、と考える親に、本当の意味での良い子は育てられません。
仮にあなたのほうも子供連れであれば、おそらくその子は「ボクにはいつもしてはいけないと言ってることを、あの子はやっているのに、ママはどうして黙ってるんだろう」
と、不思議に思うことでしょう。その純粋な問いに対して、「そうね、あの子は悪い子ね。でも、あなたはあんなことをしないでね」
と小声でささやくだけでは、やはり不充分なのです。そんなことで、子供は納得しません。自分の子であろうが他人の子であろうが、良いことは良い悪いことは悪いと教えてあげることこそが、人間として正しい行為であり真の親切だ、と身をもつて示すのが、生きた教育というものでしょう。


先生と大切です。

子供のほうもただ無自覚

体験させてあげてください。もちろん、あなたの子供が他人から叱ってもらった時に、であることは言うまでもありません。
ありがたいと受け止めるべき
過ちを繰り返させないために【禁句】
何てことをしてくれたの。
そんな子に育てた覚えはありません。
もう情けないった【名句】「もう二度と、こんなことしないわね。
お母さん、あなたを信じているわ」
素直ないい子と考えていた子供が、万引きで警察に突き出されたという連絡を受けたとしたら、あなたはどうするでしょうか。たいていの親はうろたえ、絶望し、嘆き悲しむことでしょう。それほど親にはショッキングな出来事です。しかし、それはぜひ一時の感情にしていただきたいものです。
母は父の死後

子どもはピンと分かると思います。なにも、この世が終わってしまったわけではありません。
一度でも過ちを犯した子供は、本当に悪い子でしょうか。もう、その子は限りなく転落の道を行くしかないのでしょうか。決してそんなことはないのです。
とりわけ最近の子供の非行は、遊び型だと言われています。仲間外れにされたくないから、面白いからやってみろと言われたので、など実に幼稚なきっかけで、いわゆる非行と呼ばれる行為に走ってしまいますが、感覚的には、ほとんど悪戯の延長のようなものです。


子どもがなにに面食らっているかが親にわからない。

だからといって許されるわけはないし、そこに至るまでの教育には、どこか問題があったかも知れません。しかし、いまこの時点での親の対応のいかんによっては、それこそ本当に子供は、間違った方向へと一直線に進んでしまいます。
あんたって子は、とりかえしのつかないことをしてくれたわね
と、ことさら一生の大事に仕立てあげて、大げさに嘆くこと!
「もう、ご近所に顔向けできないわ。恥ずかしくて買い物にも行けやしない」
などと、私たちの育て方が間違ってたんだわ。
世間体を前面に押し出して、責め立てること!
父親が会社でどういう仕事をしている

子供のほうも心得

母親の迫力のまえに圧倒されてしまっているあるいはもうどうしたらいいのか、お母さん、分からない
これらはいずれと、あたかもすべてを否定してしまうかのような言い方をすること-子供の心をますます傷つけ追いつめる、も、危険な禁句です他の誰でもない、それよりも、さんの子です。
もっと子供を信ずることこそ大切です。
両親が信じてあげなくて、お父さんとお母どうして子供は救われるでしょうか。
もちろん中には、根深い原因があり、そこを解決しなければ何にもならない場合もありますが、とにかく最初は子供を全面的に信用することから始めることです。

子どもはすぐイヤになってしまいます。

子どもの時期にがまんする

けれどもそれが行動面にも生かされているかどうかは疑問です。
たとえば電車の中でお年寄りや身体の不自由な人に席を譲るべきなのは、誰でも知っているのです。それなのに、ためらいもなく立ち上がってどうぞと言える人が、いったい何人いるでしょうか。
まさに知っていてもできないのです。それほど私たち人間は、弱い心を持っています。大人でもこうなのですから、子供に一度や二度教えたくらいで、しつけの効果が現われるはずもありません。

子供の教科書の研究もやってほしい。

何度も何度も繰り返し、その柔らかい真っ白な心に教えを刻みこんでゆかなくてはならないのです。しかも昨日も今日も明日も例外なく、同じことは同じように叱り、諭さねばなりません。実に忍耐力のいることです。
親だって、いつも同じコンディションで子供に対せるわけではありません。
時もあれば、もう何をするのもいやになってしまう時もあります。それでも「今日はすっかり疲れて、叱る元気もないわ。まあいいか、一日ぐらい」
調子のいいでは済まないのです。
いけないことにはイケマセン
と、こうしなさい
と、根気よくなすべきことにはしつけはうまくいきません。
言い続けるだけの忍耐力がなければ、と同時に、厳しさも必要です。

 

子育てとは誰かに教えてもらうものではないため

子どもの前学校で受けた抑圧から解放することができたのです。

今日は子供の機嫌が悪いから、あんまり泣いて可哀相だから、という理由でしつけのタガを緩めると、せっかく一滴一滴汲み溜めたものも、その隙間からこぼれていってしまいます。
でも、幼い子供にそこまでやるのは可哀相……とおっしゃるかも知れません。
しかし、そんなことはありません。
確かに他にラクなことも楽しいことも知ってしまっている大人にこうしなければいけませんと厳しく臨めば、苦痛を与えることになるでしょう。けれど、はじめからきちんとしつけられている子供なら、こういうものだとしか知らないのですから、本人は自分を可哀相などと感じていません。むしろ、ある時は甘やかし、ある時は厳しくすることのほうが、よほど可哀相ですその意味で、幼児期にさんざん甘やかされたあげく、小学校、中学校と進むほどに勉強、勉強と厳しく締めつけられる今の多くの子供たちが、様々な手段で反抗を試みるのも当たり前ではないかと思います。

子供が生まれても仕事を続けている子は親の後ろ姿を見て育つ子供がしつけを
身に付けていく時、もっとも重要な役割を果たすのは、親の言葉よりも、親の姿勢や行ないそのものです。
教育は耳からよりも目から、と言います。子供が小さいうちから、ああしなさい、こうしなさい、ということを親は絶えず教えていかなければいけません。教えられる側からいうと、これらの言葉は耳から聞いているわけです。その一方、子供たちは目でも親の姿を見ています口に出す事柄は、いわば理想です。体が表わすのは現実です。目で見たもののほうが子供にとって、はるかに大きな影響力を持つのは当然のことでしょう。
どんなに口をすっぱくして約束は必ず守りなさいと言い聞かせたところで、お父さん自らが日曜日に遊園地へ連れて行くという子供との約束をないがしろにすれば、やはりこの教えは身に付かないと思います。
中学生の非行が目立つ。
中学生の非行が目立つ。

経験をしたことがあります。

子どもの行動は落ちついてきます。真に思いやり深いやさしいお母さんの姿に常接している子供は、自然にやさしい心の持ち主となるに違いありません。
まさしく子は親の後ろ姿を見て育つのです。後ろ姿-つまり、建て前や見栄でお化粧された正面の顔ではなく、現実の生きざまを、私たちは子供に見られているのです。とりわけ、子供との接触が多いお母さんは、お父さんよりもずっと長い時間、背中を見つめられていることになります。
つきつめていえば、結局のところ教育とは親の側の問題、と言えそうです。子供をどう育てるかは、親がどう生きるかの別の表現に他ならないのかもしれません。

教育的信念だからそう簡単には引っ込められません。

それだけに決して片手間にやってできる、というものではありませんし、またそうであってはならないのです。子育ては常に真剣勝負、と心得たいものです。
親が育たなければ、子供も育たない子供が親の現実の姿を見て育っていくのなら、理想的なしつけは、完璧な親によってのみなされるでしょうか。答えはノーです。もしそうだとしたら、理想的なしつけなどこの世に存在しません。なぜなら、完璧な親などあり得ないのですから。
仮に私たちが初めから親でいられるなら、完璧な親にかなり近づいた状態で、子育てのスタートを切れるかもしれません。しかし世界中のどんな親も、子供を授けられた瞬間に初めて、父となり母となることができるのです。子供が生まれたその日から、親としての時を無器用に刻み始めるのです。母さんがどういうときに喜んでく


学校で受けた抑圧から解放することができたのです。 母さんの強い口調に驚いて 先生からすすめ