大学の先輩

子どもの要求に対して

また、教師の中には、成績の悪い子どもに対して特殊学級へやってしまうぞと脅迫している者がぁります。精神薄弱児の人権を無視していることにもなり、子どもたちに差別の教育をしていることになります。このような発言をする教師は、教育者としての資格はありません。
実は、障害という概念についても、それを追求してみますと、劣るというよりも個性としてとらえられることが少なくありません。個性とは、その子どもが持って生まれた一つの特性と言えるものです。また、これまで障害児と言われてきた子どもについて、
個性を見つける教育の方法をもっともっと開発していく必要があるのです。

母さん私はここで死にます

個性を見つけるという教育は、ふつう児にも言われなければならないことですから、教育の理念は、両者に対して少しも変わらないことになります。
その点で、現在の画一的な教育が、子どもたちを差別し、福祉の理念に反するものとなっているのみでなく、正しい意味での友達関係を破壊することにさえなっていることを考えてみなければならないでしょう。
一人一人の子どもを大切にする--このことは、をも含めて考えられなければならないことですこれまで障害児と言われてきた子ども
子どもを人質にしないPTAを教師は、子どもたちの両親を大切にすることが必要です。どの両親も、自分の子どもを教師によって伸ばしてもらうことを期待していますし、それにも増して、教師から可愛がってもらうことを期待しているのです。ですから、先生の言うことは、よく聞くのですよと、教師に対する絶対的な忠誠をさえ教えてきたのです。

 

子ども自身がまるで気づかないうちにです。

子どもは甘えても甘えて子供の育ちざかりにはいろいろと工夫してできるだけ

それに応えるためには、子どもはもちろんのこと、両親をも大切にすることです。ところが、学級の子どもに問題があると、その両親を非難する教師になってしまうことがあります。両親も、教師と同様に、未成熟な人格の持ち主であり、ともにいろいろな悩みを持っている存在です。そのことに思い当たるならば、両親とともに少しでも成熟しようと、相携えて努力しようという心になると思います。ところが、教師という立場になると、いつの間にか、高所から、両親に対する訓戒や説諭をする状態におちいってしまいます。しかも、訓戒·説諭をしたままで、ともにどのように努力をしたらよいかについて話し合おうとしません。つらい思いをして家に帰ってきた両親は、子どもを責めるだけに終わりますます問題行動を著しいものにしていることが少なくないのです。

大学の教授になったばたずさある母親は、教師によって
子どもを人質にされたようなものだと述懐していました。
先生に何を言っても受けつけてくれないというのです。つまり、教師は、似て非なる権威権力にあぐらをかいていることになり、封建時代そのものの姿があるというのです。
民主的な社会では、教師と両親とが対等に話し合うことが必要ですし、それがPTAの理念です担任教師にものを言うことができなくなった両親は、そのまま泣き寝入りをしていることもありますが、他の教師を頼って不満をぶつけることがあります。そのようなときに、母親に同情して担任教師の悪口をそれとなく言う教師もいます。子どもたちには、いつも仲よくしなさいと言っているのに、教員室の空気は、いつも陰にこもって仲がよくないということが、しばしばです。
子どもの着替えをさせる
子どもの着替えをさせる

育てそれに自己をささげることができる人である。

子どもには自発性の発達が妨げられています。教員同士が本当に仲よくするにはどうしたらよいか、同僚をよく言える教師になるにはどうしたらよいか、その点について、新しい教員室の雰囲気を作り出す努力が必要になります。それが、実は、子どもの問題を解決することになり、協力して両親の悩みを解決することにもなるのです。
その点では、まず、古い時代のとくに封建時代から伝わってきた教師の権威権力を、もう一度考え直してみることから始めなければならないでしょう。民主的な教育を子どもたちにしなければならないのに、教師の意識がタテ社会のものであったのでは、決して本物にはならないでしょう。両親を大切にし、同僚を大切にする教師になるよう、教師自身の人格の変革が必要です
知っていることとできること
身のかたわらに美しいと付けて
しつけと読みます。

子どもたちに教えたのではありません。

誰が使い始めたのか、本当によく考えて作られた漢字だと思います。
ことの善悪、何をすべきで何をすべきでないかを、まったく知らない白紙の状態で子供は生まれてきます。これを教えるのは親の仕事です。しかし、単に頭の中の知識として覚えさせただけでは、しつけをしたとは言えません。教えると同時に、その実践を習慣として身に付けさせた時、私たちは初めてこれをしつけと呼ぶのです。すなわち、理解に行動が伴っていなければなりません。知っていることできることとは別なのです大人はどうでしよう。して良いことと悪いことの区別もつかないほど非常識な人は、ごくわずかだと思います。子どもなのだ。


子供の育ちざかりにはいろいろと工夫してできるだけ 子どもはそれを信じ 父親は家にいる時間が昔

母子がすぐ近くにいるだけ

先生にも目の向けどころを変えてもらいたい

つまり良い面を引き出す意欲を引き出す、これが教育ということになります。叱りつけて、これらを引き出すのは難しいですが、ほめられた時、期待された時には
大人でさえ、やってみて良かった
き上がるではありませんか。

よし、今度も頑張ってみようという気が自然に湧ちょっとしたほめ言葉の効用ほめることにあまりにも慣れていないお父さんお母さんは、急にほめなさいと言われても、何をどうほめたらいいのか、ちょっと戸惑うようなところもあるいはあるかもしれません。でも、それは簡単なことです。難しい言葉も必要ないし、長い表現もいりません。
頑張ったねよくやったねやればできるじゃないお前なら絶対大丈夫安心だわ信じてるよ
たった一言ずつでいいのです。

子どもが決める

いくら良いことをしたからといって、いちいちほめていたら、甘やかすことになるのではないか、という心配は無用です。どうしたって親は叱るべきことばかりに目がいくのですから、少し意識してほめる点を探すくらいで、ちょうど良いバランスが取れると思いますあとは、なるべくプロセス過程をほめるよう、気を配ることです。世の中全体は何ごとにも結果を重視する傾向にあります。受験生がどんなに一生懸命勉強したんですと主張したところで、テストの結果が思わしくなければ、大学は入学を認めてくれません。
本当に好ましくはないことですが、ない部分があります。
学校の先生ですら結果で子供たちを評価せざるを得子供の一番そばで、結果へ至るプロセスを見守ってあげられるお母さんだけが、とした努力や工夫をほめる資格を持っているのです。そして、それをほめる時こそ
あ、やっぱりお母さんは私のことをちゃんと見ていてくれたんだちょっと、子供がもっとも喜び、安心する瞬間なのです。

 

母と娘というものです。

子どもになってしま特父親は家にいる時間が昔

叱り方三つのポイントこうしてゆくと、子供は叱らずにほめたほうが良いということになりそうですが、実はそれは違います。ほめることは必要ですが、叱ることもまた欠かせません。ほめること
叱ることが、両輪のように上手に回転して初めて良いしつけという車は走り出すのです子供はいたずらや失敗をした時、あ、これは叱られるなということを自分でも感じています。ところが予想に反して、お母さんは何も言いませんでした。子供はホッとして、また同じことを繰り返します。それでもお母さんが叱らなかったら、子供はどう思うでしょうカ「お母さんは、どうして叱らないんだろう。ボクのことなんかどうでもいいのかな」
noと、だんだん不安になってしまいます。
子供も決して珍しくはありません。
事実、親が叱ってくれないと言って非行に走る叱ることは必要です。ただ叱り方を間違えるな
ントを三つ、ご説明しましょう。
ということなのです。
叱り方のポイまず第一に、叱る怒るは違うことを知ってください。

子供からどのような姿にうつっているのだろう怒るのは感情です。
子供の行為にカッとなりヒステリックに怒鳴っても、教育的効果は望めません。さきほどもちょっとふれましたが、ほとんどのお母さんは怒っているのです。もちろん感情のない人間はいませんから、怒らないでいることは易しくはありません。私自身、子供たちが小
さかった時分を思い起こすと、やはり叱る
より怒る
ことのほうが多かったと反省しています。
一方、叱るとは、ある程度の距離を置き、冷静にことの善悪を判断して、ピシッとした注意を与える行為です。心にゆとりがありますから声も穏やかで、的を射た言葉が出てきます。しつけに本当に効果があるのは、こちらの叱るほうだけです怒らずに叱るためには、叱り方のコツに通じていなければなりません。
小学校五六年生のときに教師から三羽烏と謳われ国立
小学校五六年生のときに教師から三羽烏と謳われ国立

勉強のできるしっかりした子なのです

母さんが祈って祈ってこの世に生まれてきぜひ、上手な叱り方の工夫というものを研究して欲しいと思います。
お母さん方には二つめのポイントは、その場で叱る心掛けです。

お前はあの時、こんなことをしたでしょ!!
とくに小さい子の場合はなどと、時が経ってから叱っても何の役にも立ちません。叱るべきことは、それが行なわれた時点で叱るのが原則です。少なくとも、それが親にわかった時点で叱らなければなりません。
これは簡単なようでいて、意外に徹底されていないのです。たとえば、人前で子供を厳しく叱るのは
みっともないのでお客さまのみえている時に子供が禁じてあることをしても
あらあら、イヤねえ、ホホホ……で済ませ、心の中であとでひどいからねなどとつぶやいています。

勉強なこと言ったって手遅れだよねえ

けれども、しっけにあとでは通用しません。幼い子であればあるほど、都合の悪いことはサッサと忘れます。
また、小学校の上級生ぐらいになると
お母さんたら、お客さんの前だからイイカッコして3と思うでしょう。親の権威も何もあったものではありません。
他人が見ていようがいまいが悪いことはタイミングを逃さず、その場でピシリと叱るのがよいのです。
最後は例外を作らないということです。これが一番重要ではないかと思います。昨日は叱られたその同じことを、今日はお母さんがテレビに夢中になっていたので、ちょっとうるさそうに睨まれただけだった。
いことなのか、子供は判断の基準を失ってしまいます。しつけの効果が上がらないどころか、後もどりすることになります。大学紛争がおこった。


父親は家にいる時間が昔 学校で受けた抑圧から解放することができたのです。 大学の先輩

いじめられている同級生を殺すという事件があった。

先生の話すのを聞いて啓子

けに、せっかく叱ってくれた人に対して、感謝するどころかうちの子のことは、放っておいてください!!
おまなどと喰ってかかる親までいるのですから、呆れるばかりです。
わざ不愉快な思いをしてまで、他人のことには口を突っこむまい、でしょう。
だからなおさら、わざとする風潮が強まるのですが、また罪であり、と同時に、相手が子供であろうが大人であろうが、他人の間違った行ないを見逃すことも一社会人として恥ずべき行為であることには自分の子供さえ良い子なら、変わりありません。
母さんだって完璧じゃない

父親から学んだと言っている。


子どもが夢中になる各種のゲーム

>勉強すればホいまはどうだ。他人の子はどうあろうと構わない、と考える親に、本当の意味での良い子は育てられません。
仮にあなたのほうも子供連れであれば、おそらくその子は「ボクにはいつもしてはいけないと言ってることを、あの子はやっているのに、ママはどうして黙ってるんだろう」
と、不思議に思うことでしょう。その純粋な問いに対して、「そうね、あの子は悪い子ね。でも、あなたはあんなことをしないでね」
と小声でささやくだけでは、やはり不充分なのです。そんなことで、子供は納得しません。自分の子であろうが他人の子であろうが、良いことは良い悪いことは悪いと教えてあげることこそが、人間として正しい行為であり真の親切だ、と身をもつて示すのが、生きた教育というものでしょう。


先生と大切です。

子供のほうもただ無自覚

体験させてあげてください。もちろん、あなたの子供が他人から叱ってもらった時に、であることは言うまでもありません。
ありがたいと受け止めるべき
過ちを繰り返させないために【禁句】
何てことをしてくれたの。
そんな子に育てた覚えはありません。
もう情けないった【名句】「もう二度と、こんなことしないわね。
お母さん、あなたを信じているわ」
素直ないい子と考えていた子供が、万引きで警察に突き出されたという連絡を受けたとしたら、あなたはどうするでしょうか。たいていの親はうろたえ、絶望し、嘆き悲しむことでしょう。それほど親にはショッキングな出来事です。しかし、それはぜひ一時の感情にしていただきたいものです。
母は父の死後

子どもはピンと分かると思います。なにも、この世が終わってしまったわけではありません。
一度でも過ちを犯した子供は、本当に悪い子でしょうか。もう、その子は限りなく転落の道を行くしかないのでしょうか。決してそんなことはないのです。
とりわけ最近の子供の非行は、遊び型だと言われています。仲間外れにされたくないから、面白いからやってみろと言われたので、など実に幼稚なきっかけで、いわゆる非行と呼ばれる行為に走ってしまいますが、感覚的には、ほとんど悪戯の延長のようなものです。


子どもがなにに面食らっているかが親にわからない。

だからといって許されるわけはないし、そこに至るまでの教育には、どこか問題があったかも知れません。しかし、いまこの時点での親の対応のいかんによっては、それこそ本当に子供は、間違った方向へと一直線に進んでしまいます。
あんたって子は、とりかえしのつかないことをしてくれたわね
と、ことさら一生の大事に仕立てあげて、大げさに嘆くこと!
「もう、ご近所に顔向けできないわ。恥ずかしくて買い物にも行けやしない」
などと、私たちの育て方が間違ってたんだわ。
世間体を前面に押し出して、責め立てること!
父親が会社でどういう仕事をしている

子供のほうも心得

母親の迫力のまえに圧倒されてしまっているあるいはもうどうしたらいいのか、お母さん、分からない
これらはいずれと、あたかもすべてを否定してしまうかのような言い方をすること-子供の心をますます傷つけ追いつめる、も、危険な禁句です他の誰でもない、それよりも、さんの子です。
もっと子供を信ずることこそ大切です。
両親が信じてあげなくて、お父さんとお母どうして子供は救われるでしょうか。
もちろん中には、根深い原因があり、そこを解決しなければ何にもならない場合もありますが、とにかく最初は子供を全面的に信用することから始めることです。

子供の育ちざかりにはいろいろと工夫してできるだけ

練習をしているという状態が起きてきます。

彼らは彼らなりに、お母さんに叱られないよう、少しでもテキパキと体を動かそうとし、あるいは内心早く勉強しなくちゃと考えているわけです。そこへ言わずもがなの過剰な叱責がポンポン飛んでくれば、焦りから、ますます動きが鈍くなったり、やる気を失くしてしまうのも無理からぬことでしょう。
とりわけ幼い子供に対しては、ボタンをかける、靴をはく、といった動作の一つ一つに早くしなさいと言い過ぎるのは禁物です。
両親が信じてあげなくてお父さん

子育ては個


勉強したので日々

>母さんのなかにははじめからあきらめてましてやああ、もう、ジレったいわね。お母さんに貸してごらんなさい
とばかりに、いちいち手を出していては、それこそ何もできない子になってしまいます。
お母さんにしてみれば、こんなことでは集団生活についてゆけないのではないかしら.他の子に遅れを取るんじゃないだろうか、そんな不安もあるのでしょうが、小さな子供の手もとがぎこちないのは当たり前と、どうぞゆったり構えてください。
そして何ごともできるわねと励ましつつ、じっと待ってあげてください。ここでも教育は忍耐を大いに発揮するのです。長い目で見れば、このやり方のほうが早く……の一言より、はるかに効果的であると思います。


子どもが幼い頃にはとてもスムーズ

先生が曲りなりにも資格

子供の先回りをする信念がなければ、しつけはできません【禁句】
そう、おばあちゃまがいいとおっしゃるなら仕方ないわね。
じゃあ、いい【名句】「それはダメというのが、お母さんとの約束でしょ。
だからいけません」
「しつけは厳しく、というのが夫婦の方針なのですが、おばあちゃんが甘やかすので困ります。間食も禁じてあるのに、子供にせがまれるままに買い与えてしまうんですよ」

子供が腕時計を欲しがってるんですが、今は必要もないし、ダメと言ったんです。
両親が信じてあげなくてお父さん

子どもたちが自分でカロリー計算それをいつの間にか、いなかのおじいちゃんにおねだりしたらしくて。甘くて困るんですよねこんなお母さん方の訴えに、私も日頃よく出会います。
おじいさん、おばあさんは子育ての大先輩ですから、その豊かな体験談には大いに耳を傾けたいところですが、確かに孫に対して甘くなりすぎる、困った傾向もあるようです。
しかも、どんなに甘やかさないでくださいとお願いしたところで、その考え方まで変えさせるのはほとんど不可能ですし、実の親ならぬお舅お姑さんに、そうあからさまな反論はしにくいという悩みもあることでしょう。
しゅうとしゅうとめしかし、すでに述べたとおり、ひとつの事柄に関して、ある時は叱り、ある時は許すこれはしつけという点において、大きなマイナスなのです。したがって、とかく起こりがちなこれらのトラブルに対しても、どう臨むかは決して小さな問題ではありません。


中学生以降

難しい、いなりに、デリケートな場面ではありますが、少なくとも、おじいさん、おばあさんの言親のほうがオロオロ態度を変えてしまうことだけは避けてください。
子供は案外にズルいところがありますから、祖父母の手前、普段は禁じていることを許してしまったり、叱るべきことを見逃したりすると、そんな得をした経験ばかりを記憶に留めます。そして次の機会に再び厳しく接しようとしても、
だって、あの時はいいと言ったじゃないのと、反撃されるハメになるわけです。
これだけは譲れないという、何かピシッとしたものを、やはりどんな場合も親は失いたくないものです。すなわち、どれほどの信念を持って子育てに当たっているか、という問題に他なりません。日常の中で信念を感じさせる毅然とした親であれば、子供が祖父母の前で、ここぞとばかり我がままに振舞うこともないはずです。
逆に、ダメと言ったものをこっそりおじいちゃんにねだるなど、相当に子供から軽く見られている証拠なのですから、親の姿勢をこそ、もう一度考え直すべきかも知れません。
他の子との比較で叱るのは手抜きです
【禁句】
お隣りのタカシ君を見なさい。
言われなくたってキチンと勉強してるわ。
しつけないことです。

子どもとの真のつながりはできない。

子どもがそうならないようそれに比べ【名句】帰ってきたらまず宿題をするというのが、お母さんとの約束だったでしょう子供を叱るのにもっともラクな方法のひとつは、友だちや兄弟姉妹と比較することです。

今日、教室に班の連絡帳を忘れてきちやったんですって?あなたが遊びに行ってる間にタカシ君が届けてくれたのよ。本当にあの子は、しっかりしてて偉いわ。誰かさんとは大違いで「いつまで、そんなくだらないテレビ見てるの。妹のほうは、もうとっくに勉強を済ませて、お使いに行ってくれたっていうのに。まったく、どっちがお姉ちゃんだか」
これが実に多いのです。ですが、このやり方は子供が可哀相です。

子どもはすぐイヤになってしまいます。

子どもの時期にがまんする

けれどもそれが行動面にも生かされているかどうかは疑問です。
たとえば電車の中でお年寄りや身体の不自由な人に席を譲るべきなのは、誰でも知っているのです。それなのに、ためらいもなく立ち上がってどうぞと言える人が、いったい何人いるでしょうか。
まさに知っていてもできないのです。それほど私たち人間は、弱い心を持っています。大人でもこうなのですから、子供に一度や二度教えたくらいで、しつけの効果が現われるはずもありません。

子供の教科書の研究もやってほしい。

何度も何度も繰り返し、その柔らかい真っ白な心に教えを刻みこんでゆかなくてはならないのです。しかも昨日も今日も明日も例外なく、同じことは同じように叱り、諭さねばなりません。実に忍耐力のいることです。
親だって、いつも同じコンディションで子供に対せるわけではありません。
時もあれば、もう何をするのもいやになってしまう時もあります。それでも「今日はすっかり疲れて、叱る元気もないわ。まあいいか、一日ぐらい」
調子のいいでは済まないのです。
いけないことにはイケマセン
と、こうしなさい
と、根気よくなすべきことにはしつけはうまくいきません。
言い続けるだけの忍耐力がなければ、と同時に、厳しさも必要です。

 

子育てとは誰かに教えてもらうものではないため

子どもの前学校で受けた抑圧から解放することができたのです。

今日は子供の機嫌が悪いから、あんまり泣いて可哀相だから、という理由でしつけのタガを緩めると、せっかく一滴一滴汲み溜めたものも、その隙間からこぼれていってしまいます。
でも、幼い子供にそこまでやるのは可哀相……とおっしゃるかも知れません。
しかし、そんなことはありません。
確かに他にラクなことも楽しいことも知ってしまっている大人にこうしなければいけませんと厳しく臨めば、苦痛を与えることになるでしょう。けれど、はじめからきちんとしつけられている子供なら、こういうものだとしか知らないのですから、本人は自分を可哀相などと感じていません。むしろ、ある時は甘やかし、ある時は厳しくすることのほうが、よほど可哀相ですその意味で、幼児期にさんざん甘やかされたあげく、小学校、中学校と進むほどに勉強、勉強と厳しく締めつけられる今の多くの子供たちが、様々な手段で反抗を試みるのも当たり前ではないかと思います。

子供が生まれても仕事を続けている子は親の後ろ姿を見て育つ子供がしつけを
身に付けていく時、もっとも重要な役割を果たすのは、親の言葉よりも、親の姿勢や行ないそのものです。
教育は耳からよりも目から、と言います。子供が小さいうちから、ああしなさい、こうしなさい、ということを親は絶えず教えていかなければいけません。教えられる側からいうと、これらの言葉は耳から聞いているわけです。その一方、子供たちは目でも親の姿を見ています口に出す事柄は、いわば理想です。体が表わすのは現実です。目で見たもののほうが子供にとって、はるかに大きな影響力を持つのは当然のことでしょう。
どんなに口をすっぱくして約束は必ず守りなさいと言い聞かせたところで、お父さん自らが日曜日に遊園地へ連れて行くという子供との約束をないがしろにすれば、やはりこの教えは身に付かないと思います。
中学生の非行が目立つ。
中学生の非行が目立つ。

経験をしたことがあります。

子どもの行動は落ちついてきます。真に思いやり深いやさしいお母さんの姿に常接している子供は、自然にやさしい心の持ち主となるに違いありません。
まさしく子は親の後ろ姿を見て育つのです。後ろ姿-つまり、建て前や見栄でお化粧された正面の顔ではなく、現実の生きざまを、私たちは子供に見られているのです。とりわけ、子供との接触が多いお母さんは、お父さんよりもずっと長い時間、背中を見つめられていることになります。
つきつめていえば、結局のところ教育とは親の側の問題、と言えそうです。子供をどう育てるかは、親がどう生きるかの別の表現に他ならないのかもしれません。

教育的信念だからそう簡単には引っ込められません。

それだけに決して片手間にやってできる、というものではありませんし、またそうであってはならないのです。子育ては常に真剣勝負、と心得たいものです。
親が育たなければ、子供も育たない子供が親の現実の姿を見て育っていくのなら、理想的なしつけは、完璧な親によってのみなされるでしょうか。答えはノーです。もしそうだとしたら、理想的なしつけなどこの世に存在しません。なぜなら、完璧な親などあり得ないのですから。
仮に私たちが初めから親でいられるなら、完璧な親にかなり近づいた状態で、子育てのスタートを切れるかもしれません。しかし世界中のどんな親も、子供を授けられた瞬間に初めて、父となり母となることができるのです。子供が生まれたその日から、親としての時を無器用に刻み始めるのです。母さんがどういうときに喜んでく


学校で受けた抑圧から解放することができたのです。 母さんの強い口調に驚いて 先生からすすめ

両親が信じてあげなくてお父さん

父親は急に引き締め策に移りました。

子供の人格ばかりか、お父さんの人格まで否定してしまっては、それこそ身もフタもないとしか言いようがありません。
今日だけは……
の妥協は禁物
【禁句】「仕方ないわね。
じゃあ、今日だけよ。
明日からはキチンとするんですよ」
【名句】
いいえ、約束は約束でしょ。
ちゃんと守らなくちゃダメじゃないの昭和四十二年、浩宮さまの初めての
一人旅のお伴をして、浜松までご一緒した時のことです。当時七歳でいらした宮さまは、夜八時ごろにお休みになるのが習慣でした。が、西気賀という浜名湖の北岸に宿をとったその日は、さすがに旅の興奮もさめやらぬといったご様子で、決められた時刻が過ぎても、なかなかふとんに入ろうとはされません。
大学の先輩

母親を勇気づけてやるよりもっと他に道はない


教育が日本と違う点

>子どもの能動的な力しかし御所では、日課をキチンと守るという点を両陛下が厳しくしつけておられたので私としてもそれでは今日だけ特別ですよという言葉は使いたくありませんでした。
そこで、ふと思いついた私は、宮さまがお休みにならなければ、私は先に失礼しますよ
と、わざと寝たふりをして、宮さまが隣のふとんに横になられるのを待ったのです。
実はこの話には後日談があり、宮さまがその夜のことを美智子さまに報告なさった時浜尾さんはね、ボクより先に寝てしまったんだよ
と無邪気におっしゃられたので、私はすっかり冷や汗をかいてしまったのでした。
私の思い出話はともかくとして、子供に日常の約束事を守らせるということは、なかなかに難しいものです。旅先だから、お客様がいらしたから、面白いテレビ番組があるからなど様々な理由で、子供は就寝を遅らせたり、家での勉強やお稽古事を休むことを望みますそして、それらの欲求に決して妥協しないということは、実は親にとってシンドイものです。


子ども自身に振り返らせます。

子どものメンツを潰すようないい方をしていない

先生にまかせて仕方ないわねといい顔
をするほうが、はるかに楽なのです。しかし、人間は放っておけば、いくらでも易きに流れてゆきます。今日ぐらいはいいやという子供の弱い心を叱ってやれるのは、親しかありません。
特に、を許し、子供のお稽古事が長続きしないのは、本人の責任以上に、親が今日だけ……
ついには叱るのも面倒で諦めてしまうのが原因なのではないでしょうか。
陛下のチェロのご趣味に触発されて、四歳からバイオリンを手にされた宮さまも、練習を休みたい様子がしきりに窺える時期がありました。が、私はあえて心を鬼にしてレッスンはレッスンですと押しとおしたのです。お稽古を欠かさなかった宮さまが現在、心豊かな素晴らしき演奏家でいらっしゃることは、ご存知のとおりです。
子供を型にはめる叱り方は逆効果【禁句】「また、そんな嘘をついて。
あなたは嘘つきだから、お母さん信用しないわ」
【名句】お母さんにだけは、本当のこと言ってくれるわよね
学校で父母面談などがあると、口々にこんなことを訴えるお母さん方がいます
母マリアさまは処女懐胎でキリスト人類

育児について「先生、うちの子は本当に落ち着きがないでしょう?授業中ちゃんとしていられないんじゃありませんか」
「いくら注意しても、すぐにうちの子はその場逃れの嘘をつくんです。どんなふうに叱ったら、いいんでしょうか」
聞いていてなるほどと思い当たることもあれば、のにと不思議に思うケースも、ままあります。

オヤ、学校ではそれほどでもないどうも親というものは、子供にあるレッテルを貼ってしまいがちなものです。この子はロマな子この子はおしゃべりこの子は嘘つきという具合にです。確かに、そのほうが親はラクです。何ごともそのレッテルに沿って、注意したり叱ったりすればよいわけですからでも、子供は無限の可能性を秘めた存在なのです。欠点を克服してゆく力も持っていますし、また見えにくいけれども、意外な良い面がたくさんあるかも知れません。子供にレッテルを貼り、一定の型にはめる叱り方は、それらの可能性を断ち切ってしまう結果になります。
何をやってもグズでダメな子という目でしか見てもらえない子供は、いつしか本当にダメな子になってしまいます。


学校へ持っていく道具である筆箱の中

嘘つきと言われ続けた子供は、決して正直な人間には育たないでしょう。
そうではなくて、親のほうからまず「生まれつきグズなわけではない。この子だって、やればきっとできるはずだ」
と、期待してあげることです。大人だって君ならきっとやれる、期待しているヨと言われれば、さぁヤルぞという気になります。期待されるということは、人間を非常に伸ばすのですもちろん、子供に期待の言葉をかけたからといって、明日から急に欠点が直るというものでもありません。効果が現われるのは遠い先かも知れないのです。しかし少なくともレッテルを貼ることでは子供は決して変わってゆかない事実を、忘れないでください。
早く早く
ノロマな子をつくる【禁句】
なにグズグズしてるの。
子どもは何度言っても同じことを繰り返すのです。

子どもはわけが分かりませんよ。

成績がよくない早くしなさい!
【名句】ちゃんとできるわね。
お母さん、待ってるから

毎日どんな点をお母さんに叱られるのかを、子供たちに聞いてみると「あなたは起きてから顔を洗うまでに何時間かかるのよ。早くしなさい」
どうして、もっとサッサと支度ができないの。遅刻するでしょ
「ほら、いつまでもノンビリ座りこんでないで。早く宿題を片づけなさい」
などなど、動作の遅さや時間の使い方の不器用さに対するお小言が、その半数ほどを占めているのに驚かされます。これではまるで、一日中早く早くとせき立てられながら生活しているようなものです。まさに気の毒としか言いようがありません。

少しセカして、ちょうどいいんですよ
とおっしゃるお母さんも多いでしょう。しかし早くしなさい
当に子供の動作や行動の助けになっているのでしょうか。むしろ、ますの一言は、はたして本その逆のような気がしなぜなら、ほとんどの子供は、なにもそうしようとしてグズグズしているわけではないからです。

しつけないことです。

母さん方は知識はたくさん持っています。

あの後味の悪さか
ちょっとの努力でイヤミ·ママ
もほめ上手に
【禁句】
あら、自分からすすんで勉強するなんて、珍しいわね雪でも降らなきゃいいけど【名句】「言われなくても机に向かうなんて、お姉さんになった証拠ね。
お母さん感心したわ」
「まったく、遊びに行く時だけはやたら張り切って。その元気を少しは勉強にも振り向けたらどうなの」

おや、あなたのほうから手伝ってくれるなんて、どういう風の吹きまわし?
へえ、九十点も取ったの。今度のテストは簡単だったんだね
叱るにつけ、ほめるにつけ、お母さんがともすれば陥りやすい欠点の一つは、やたらにイヤミっぽいということです。
子どもは何度言っても同じことを繰り返すのです。

小学校の入学式のとき


大学の卒業生なんか何の役にも立たんじゃない

>子どもはしぶしぶでも片づけました。勉強もキチンとしなさい手伝ってくれてありがとう今度のテストはよく頑張ったねと言えば済むものを、こんなイヤミを浴びせられて、なおかつやる気をなくさない子供がいるとしたら、よほどの精神力の持ち主か、もしくはお母さんをまったく無視しているかでしょう。
おそらくお母さんも、それを良しとして言っているのではなく、口を開くとついつい皮肉っぽくなってしまう、というのが本音ではないかと思います。それも、もともとがイヤミな性格、などというわけでは決してないはずです。皮肉がすぐに口を突いて出るのも相手が自分の子だと思えばこそでしょう。
皮肉に限らず、常識的に考えて人に向かって言うべきでない言葉を、我が子に対しては無遠慮に、あるいは無用心に使ってしまうのは、親の常かもしれません。


子どもに人格とか価値観ができあがってき

両親やその他の家族から溺愛や過保護を受けてき

子供というものは一人一人違います。けれども考えてみれば、他人ではないから許される、親子なんだから分かってくれるはずだ、という解釈はあまりにも一方的すぎないでしょうか。それは、相手を独立した1個の人格としてとらえず、私の子供であるからと、自分の中にその存在を取りこんでしまう、親のおごりのゆえではないかと思うのです。
親子とはいえ、結局は一対一、人間同士のつながりです。どちらにも感情はあるのですし、揶揄されれば気がくじけてしまう弱さも持っています。わざわざ相手を傷つける言葉を選ぶ必要性はどこにもありません。第一、親もまた親しき仲の礼儀を守って、気持ちょく子供に接したほうが、自分もイライラせずに済むのではありませんか。
イージートーン購入を検討する。

勉強をさせるための用意をしそれがうまくいくやゆ何より子供の可能性を引き出し、良い点を伸ばしてゆくのは、はなく、素直なほめ言葉、励ましの言葉なのですから間違ってもイヤミなどで
失敗してもダメな子ではありません
【禁句】
本当にあなたってダメな子ね誰に似たのかしら【名句】「こうなったのはあなたが不注意だったせいね。
これからは気をつけなさい」
叱るべきことだけを的確にピシッと叱る、とはどういうことか、もう少し考えてみましょう。
はじめに、怒ること叱ることとは別だと言いました。


子どもにはひとりひ

叱ることの目的はあくまで子供の過ちを諭し、正しい方向へ導くことなのですから、その言葉は手短であるとともに、なるべく具体的であるのが望ましいわけですさと相手が幼いうちであればなおさらのことちゃんとしなさいダメね
といった漠然とした表現ではなく、要があります。
何がいけないかを、分かりやすく指摘してあげる必と同時に、もっとも大切なことはしてはいけないことをしてしまった、あるいは、やるべきことをやらなかった、その行為そのものを叱るのであって、決して人格の否定に係わる言葉は口にしない、という点です。
母マリアさまは処女懐胎でキリスト人類

勉強できる子

育てることでした。これが簡単なようでいて、実はなかなかに難しいのです。
ちなみに、いつものお説教のパターンを、ちょっと思い起こしてみてください。なるほど最初のうちは、悪戯したこと、宿題を忘れたことを注意していたはずなのに、最後はだから、あんたって子はダメなのよ
というお決まりの結論で締めくくってはいないでしょうか。ひとつの失敗を、まるで性格全体がダメであるかのような言い方をし、いたずらに子供をいじけさせたのでは、叱ることの意味も失われてしまいます。
さらに念の入ったことに、いったい誰に似たのかしらね
と付け加えるお母さんも多いのですが、これはますますいけません。なぜなら私
に似たのではない限り、そのセリフはすなわちあなたは、お父さんに似てダメなのよねという意味を暗に含んでいるからです。

子どもは何度言っても同じことを繰り返すのです。

母親であることの良さを強調したい

そのために、教育課程審議会も発足しています。ですから、教師も両親と手をつないで、どのようにしたら本当に子どもが
のびのびと学習できるか、そして、学力がつくかについて、いっしょになって考えてみなければならないでしょう。それも、目先の学力ではなく、受験のためのものでもなく、小学校であれば、中学や高校にいってからの学力-という見通しの中で、考えてみなければならないことです。
とにかく、現在の教育は、学力偏重と言われており、しかもその学力も本当に子どもの力とはならないような教育のもとで行われていることが、多くの人々によって指摘されているのです。その犠牲から、一日も早く、子どもを救わなければなりません。
障害児と共に学ぶということ障害児とは、目や耳に障害のある子、手足に不自由のある子、言語に障害のある子、虚弱の子、知恵のおくれている子、情緒に障害のある子などさまざまです病障害児と聞いたときに、教師はどのような概念でとらえるでしょうか。ふつうの子どもと対比して、特別な子どもとしてとらえるのではないかと思います。

高校にも行かないまま。

従って、ふつうの子どもといっしょに教育することはできない子どもと決めてしまっている教師さえありますところが、障害児と言われている子どもでも、文明の利器や教育機器の開発によってふつうの子どもといっしょに学習することが可能となってきました。例えば、弱視であっても眼鏡によって補正することができます。それを逆に言えば、眼鏡を用いている教師も視覚障害者ですが、立派に子どもの教育をしているわけです。難聴の子どもも、補聴器の発達によって、ふつうの子どもといっしょに学習する可能性がふえてきました。あるいは手足に不自由のある子どもにも、学校の施設設備に工夫をすることによって、全教科ではないにせよ、普通学級での学習に参加することが可能になったのですでは、なぜ障害児に対する特殊学級が設置されているのでしょうか。それは、歴史的に眺めてみる必要があります。盲とろうとを除いては、教育外の子どもとして、放り出されていた時代があるのです。それを救って、教育の路線に乗せてあげなければならないという考え方から、特殊学級や養護学校が設置されるようになったのです。

 

子どもはスッと寝室へ行く

子ども自身の自覚を促すしか方法がない。子育てに担う役割は単なる

しかしそれらの子どもを教育してみますと、ふつうの子どもの中で教育する部分を見つけることによって、その刺激を受けて、発達が向上することがだんだんにわかってきたのですそこで、障害児をも含めて流動的な学級経営を考えるようになり、親学級子学級の考え方がでてきたり、障害児が普通学級へ部分的に参加するという試みもなされるようになったのです。統合教育です。しかし、そうした試みに対して、いつも抵抗がぁるのは普通学級の教師です。そのことばは、一人の障害児のために、他の子どもが迷惑になるという点と、「大勢の子どもをかかえているので、一人の子どもをよくみてあげることができないから、特殊学級でやってもらいたい」という点です。

学校から帰ってきてさらに、ふつう児の親たちが反対するということを理由にあげる教師もありますふつう児の親たちが反対しても、その教師の信念が確立していれば、よく説明をすることができます。とくに、両親教育の一環として考えることができます。そのためには、障害児がその学級にいることが、ほかの子どもにもプラスになることが必要です。その点で非常に重要なことは、教師自身の障害児に対する考え方であり、人生観であり、人格です障害児が学級の中にいることが、他の子どもたちに、福祉の理念を育てることに役立つという考え方に基づいて教育をしている教師は、障害児を大切な子どもとして考えています。ですから、ほかの子どももそれを学習してゆき、子どもたちがそれぞれ自分なりの障害児とのつき合い方を発見していくものです。そこには、決して可哀相な子という憐れみの心はありませんし、人間として差別する心もありません。
子どものそばを離れてやることですね。
子どものそばを離れてやることですね。

母さんの一日も振り返ってみるとほとんど

両親にとっても教師に言われています。そのような心が育てられた子どもが成長して大人になったときには、真の福祉国家の実現が望まれるわけです福祉の理念がそれぞれの子どもの心に育つには、どうしても実践が必要です。ふつうの子どもの両親もまた、障害児の両親に対して、自分なりのつき合い方を考え出すことがその人格をゆたかにすることになるのです。このことを考えるならば、障害児がいると迷惑だと言う親の発言は、誤った学力偏重であり、差別意識を自分の子どもに植えつけており、日本の将来を暗いものにする福祉国家の理念に反する教育をしていることになりま
す障害児を含めての教育の実践をどのようにしたらよいかについては、今後において研究しなければならない点がたくさんに残っていますが、それらを研究してみますと、真の教育は何カーという重要な命題の前に立たされることになります。

子どもの自発性を養うため

障害児の教育を通じて初めて、ふつう児がよくわかってくる面もあるのです。
その中で、とくに考え方としてむずかしいのは、知恵のおくれた子どもについてです。
知恵おくれの子どもたちを、どのように学級の中で考えたらよいか。その点では、例えばIQで表現するならば、ふつう児といわれている子どもの中の1Q九一の子どもと、境界線児といわれている1Q八八の子どもとの差がどこにあるか、あるいは、IQ七六の境界線児とQ七四の精神薄弱児とどこがちがうのか-ということを考えてみる必要がありまた知恵テストの方法によってもそれら1Qがちがってきます。従って、IQ七五以下を精神薄弱とすること自体に問題があるわけです。また、テストの結果や学業成績についての評価が誤っているために、精神薄弱というレッテルを貼られている子どもさえもいますし、精神薄弱のための特殊学級の中に、高知能指数児もいるのです。
そのような子どもの両親の中に、普通学級の教師に対して、強い敵意を持っている者があります。普通学級から追い出された-という意識を持っているのです。母さんは夜仕事から帰ってきてから毎日五分ほど


子育てに担う役割は単なる 父親は家にいる時間が昔 母子がすぐ近くにいるだけ

子育てに担う役割は単なる

学校へ出すことに焦る

教育者は、子どものよい点を引き出すことに力を注がなければなりませんし、その目を持つことによって次々とよい点が見付かるものなのです。
よく学んでいても、成績がよくない子どももいるでしょう。それは、子ども自身の力が足りないということもありましょうし、教師の教育法がへたで、その子には合わないといぅこともあるでしょう。宿題と同じように、点数をつけて子どもや両親に示すだけでは意味がないのです。
テストは、自分がその子どもにどのような努力をして、学力を向上させたかを、身が反省するきっかけとしなければならない材料だと思います教師自私自身は、教師になって数年してから、A以外はつけないようになりました。教育をする以上は、どの子も、必要なレベルまで到達させるように努力しなければならないと考えたからです。
ですから、試験をして、一人一人についてよく理解のできていない箇所があれば、その点を指摘して、勉強し直してもらうのです。

先生の止めるのもきかず修学旅行に出かけ

またテストをしてみて、更に理解できていないときには、いっしょに本を読み合ったりして補習の努力をします。そしてAになるまで努力をするわけですから、結局、すべての学生がAになるわけです。それが、教育者としての大切な営みと考えたからです。
そのような努力をしてみても、なかなか理解の乏しい子どもがいるでしょう。その場合にはその子どもが理解しやすい教科から学習をすすめていくこともありますし、あるいは友達とのグループ学習で理解を深めることができたという例もあり、教授法を考え直してみるきっかけにもなります。
そのような努力をしないで、悪い点数をつけている教師は悪い教師だ、と気がついてから、私は、自分の子どもの通信簿を見ないようにしました。今でも、
悪い点数をつけっ放しでいる教師は、悪い教師だという考え方は続いていますとくに、親との面接のときに、学業成績のことから話し出す教師は、学力偏重の教師として、悪い教師だと思っています。

 

子どもの本質

成績である。母子がすぐ近くにいるだけ

私の尊敬する教師は、
学業の成績はなかなかあがらないが、実によい性質をもっている子だということを言う人です。ですから、両親との面接のときには性質のよさについて話し合っています。両親は、教師と面接するときには性質をよく見ていてくれる教師かどうかを、まずたしかめることが必要ですそのことは、通信簿にも現れています。子どもの性質、行動について記入されている欄がありますが、両親がもってきて私に見せてくれたときに、その欄に目を通すことにしています。そうすると、教師の人格がわかります。実に温かい書き方をしている教師か、冷たい教師かがわかります。励ましを与えられるような書き方がされており、じーんと目頭が熱くなるような温かい記述があります。

両親にはどちらもかわいいわが子に違いありません。私の尊敬する教師は、その欄を書くのに、徹夜をすることさえあるそうです。それほど熱心に、子どもやその両親の心を大切にしようとしているのです通信簿を見た両親は、点数がよければニコニコするでしょう。とくにオール5であつたりすると、玩具でも何か欲しいものでも買ってあげようという気持になるでしょう。ところが、そのような小学生の中から、中学校や高校にいって急に学習意欲を失う子どもがいるのです。このことについては、すでに述べたところです。ですから、成績のいい子は危険な子-ともいえるわけです。
成績がよい子どもであると、教師も両親も、直ちによい子だと思ってしまって、子どもの真の能力や性格を見抜いていない場合があることです。よい成績をあげている子どもの中には、先生や両親からほめられようと思って外向きの学習をしているのであって内面化していないのです。内面化とは、自分でした勉強に面白さを感ずることです詰め込み教育
からのびのび学習
へ学校においても、子どもの自発性を尊重した教育法を考え出しました。それが、オープン·システムです。子ども自身が自発的に教科を組み立て、自分なりの教育課程を作り出す!それを援助するのが教師です。
子どもの姿なのです。
子どもの姿なのです。

先生は理科

育て方に迷って弱りきっています。ですから、学年制もはずしているのです。その代り何人かの教師が協力し合って教授することが必要になります。チーム·ティーチングと言われているものですこの方法の可否はともかくとして教授法をかえればよく伸びる子どももいるはずですとくに子どもの自発性を尊重し、それに基づいて創造性をゆたかにすることを考えるならば、従来の詰め込み方式は、全面的にかえる必要があるのです従来は、悪い意味での学級王国でした。教師が王様のようになり、子どもに命令や指示を与えているという雰囲気がありました。他の学級の教師との連絡はないし、子どもたちについても、とくに問題のない限り、他の教師と意見を交換するということもありませんでした。一人の教師の子どもを見る目は狭いこともあり、その教授法がまずいことがあります。それを、教師間で助け合っていく必要があります。

子どもも気楽にほかの遊びや物事に心を移して

学級担任を中心として、子どもや教授法について討論する時間がなければなりません。
一人の教師の見方が狭いことは、前の担任が問題児としていた子どもを、次の担任は少しも問題がない-ということからもわかるでしょう。教師の子どもに注ぐ目がたくさんにあればあるほど、子どものよさも見つかりやすく、教師の誤った評価も是正さ
れる可能性が大きいのです。
そうした意味もあって、オープン·システムは、めに一つの大切な教育の方法だと思います。
これまでの教育界の欠陥を打ち破るたすでに文部省でも指摘しているように詰め込み主義の教育を打ち破らなければなりません。大学の客員教授として招かれて


母子がすぐ近くにいるだけ 子どもはすぐイヤになってしまいます。 子育てに担う役割は単なる

父親は家にいる時間が昔

子どもの言い

ですから、親も子供と一緒に育っていけばいいわけです。
てはなりません。親が育たなければ、子供も育たないのですというより、育っていかなく第二子、第三子の場合ですら、そうです。子供は一人一人みな違いますから、試行錯の上にようやく見出したしつけ方が、上の子にはうまくいったのに、下の子にはまったく通用しないこともあります。親はもう一度、育っていかなければならないのです。
私は五人の子供を授かりました。教育評論家などと称して、普段は何やら立派なことを書いたり喋ったりしているわけですから、この点に言及されると少々恥ずかしいのですが私もまた、理想的とはとても呼べない父親でした。失敗や迷いは、いくらでもありましたそれでも、子供たちがぃてくれたからこそ、見ていてくれたからこそ、何とか父親をやってこれたのだと思います。

父親も自分

自分一人だったら簡単に誘惑に負けてしまうだろう事柄も、子供にこれはいけない
と教えた手前、こちらも我慢しなければなりません。子供たちにはいつも「食事の時には行儀よく姿勢を正し、いただきますを言ってから食べなさい」
と、厳しく言っておきながら、私が体を崩すわけにはいかないのです時には、本当につらいと感じました。クタクタに疲れて帰ったのに、きちんと正座して
けれども今、曇りのない十の瞳に見つめられつつ、それぞれに個性の違う五人の子供を育て、私も五回育ち、ようやく一人の父親になれたのだと痛感するのです寝ていて人を起こすなかれ親が育つとは、単に子供の目の前でいけないと教えたことを我慢することだけではありません。

 

子どもたちにも私

子どもが片づけているのを見届け子どもはすぐイヤになってしまいます。

熱していなければ、人を暖めることはできないという言葉があります。子供にこうなってもらいたいと思うのなら、まず親がそうして見せるのが一番です。寝ていて人を起こすなの諺のとおり、子供を起こすなら、まず自分が起きてください。立ち上がって、実行して、そして教えてください。
約束を守らせたいと考えるのでしたら、親も約束したことはきちんと守るというところを、身をもつて示すのです。寝坊の癖を治したければ、親が頑張って早起きの習慣をつけねばなりません。
弱い者いじめはするな。やさしい子になれと教える時は、お母さんもお父さんに意地悪をするのはやめて、やさしくしてあげることです。

体験を話す趣味や興味の対象ですら、子供は親の好みを受け継ぐのです。お父さんがプロ野球が好きで、毎晩テレビ観戦している家庭では、黙っていても子供は野球好きになります。人形づくりに熱中しているお母さんをいつも目にしている子供は、私もやってみたいなと思い始めるでしょう。
だからテレビばかりでなく、良い本をたくさん読ませたいと考えるのでしたらもっとも身近にいるお母さんが、さっそく今日から読書を趣味とすればいいではありませんか。
子ども時代からはじめよう。
子ども時代からはじめよう。

先生とよく連絡をとり合ってい

学習態度についてこの言葉を使うかも知れません。無理強いなど少しもしなくても、お母さんが本当に面白そうにページを繰っているのを見かけたらお母さん、それ何の本?面白い?と、子供のほうから尋ねてくるに違いありません。
子育てとは、心を育てること言葉で教えると同時に、親が自らの行動をもって、それを身につけさせなければならな1-1ここに教育の難しさがあります。
ことはないのですが……。
ただ口で言ってしつけが済むなら、こんなラクなけれども、これがまた教育の味なのではないでしょうか。子供を育て教えるということは確かに大変なことですが、それだけにすばらしいことだと、つくづく思いますなぜなら、子育てとは単に子供を大きくすることではなく、その心を育ててゆくという意味だからです。教育はまさに、一つの魂を作り上げていく仕事なのです。

子供を通して健康な思いになる絶対にいけないと思う

教師という職業が昔から聖職と呼ばれるゆえんですが、それ以上に
親の仕事こそ、聖職ではないでしょうか。こんなすばらしい仕事に、就こうと思えば就ける体でありながら、自分のつごうで子供を授かろうとしない人たちの気持ちが、私には理解できません親の仕事はすばらしいものですが、とくに母親であるという仕事は、この世に存在するあらゆる職業のうちで最高だと思います。人間としてこれほどの喜びを得られる仕事は他にちょっと見当たりません。母親の周りをウロウロしている。


子どもはすぐイヤになってしまいます。 大学の先輩 母さんの強い口調に驚いて