先生からすすめ

母親をあまり客観的に見ることはできない。

時と場合によっては男の子なんだから、こうしなさい女の子はこうしたほうがいいわねの言い方が、効を奏することもあるかも知れませんが、これをやりすぎたために、
ちぇっ、そんなに言われるんなら、男なんかに生まれてくるんじゃなかった
いつつも、これなんだから。あーあ、女の子なんてソンだなぁと感じさせてしまっては元も子もありません。
それよりも、子供たちが何か間違った行ないをしてしまった時には、て
恥ずかしい行為であると教えましょう。
母さんの強い口調に驚いて

小学校に入学したのをきっかけ


子どもに憎むような目付きを投げて

>しつけは親だけでなくそれが人間としまた友達をぶった人を傷つけるようなことを言った
いじわるをした場合には男らしくない女らしくないと一言のもとに否定するのではなく、自分がされるほうの立場だったらどう感じるのか、を考えさせます。そして、自分がされて嫌なことは人にもするな、と悟らせるべきです。
男の子であっても女の子であっても、親が最終的にこうあって欲しいと願う姿はつのはずです。他人の痛みの分かるやさしい心、正しいことを愛する正直な心、つまり人間らしい心の持ち主です。


母親と同質のものを持っています

育児が行なわれてきた。

子どもたちなのです。そんな子供にしてゆくには、思いやりを育てるこの叱り方が番だと思います。
叱られるからいけないのではありません【禁句】ほら、おじさんに叱られるわよ。
やめなさい

【名句】「人に迷惑をかけるのは、いけないことでしょ。
だったらやめなさい」
天知る、地知る、我知るという言葉があります。良いことも悪いことも、人の行ないのすべてを、たとえ誰も見ている者がなくとも、自分自身と神様だけは知っている--そんな意味です。
まさに、これは真実だと思います。このことを忘れない限り、人は何が良くて何が悪いのかを、見失うことはありません。しかし現実には、神を畏れず、他人の目ばかりを怖れる人々の何と多いことでしょう。叱られるからやめておこう、ほめられるからすすんでやろうこれらはいずれも、他人の目を気にするがゆえに出てくる発想です。
母子がすぐ近くにいるだけ

子どもが決着をつけるよう電車の中など公共の場でよく見かける場面ですが、小さな坊やが走りまわって周囲に迷惑をかけているのに、お母さんは知らん顔。足を踏まれた男性がジロリとこの親子を睨むに至って、ようやくホラ、おじさんに叱られるわよ。おとなしくしていなさい
と、子供に声をかけています。
そうではなくて、悪いことだからしてはいけない、良いことだからするのだ、という大切な事実を教えなければならない立場のお母さんがこれなのですから、困ったものです。


母親が入ってきた。

こうして育った子供はやがて「芝生に入っちゃいけないって書いてあるけど、誰も見てないからいいや」
おい、先生が来るからヤバいぞ。早くケンカやめろよ
と、すべての行動の基準を、他人が見ている見ていない、によって計るようになります。
これがなぜそれほどまでに危険かと言うと、裏を返せば、見つかりさえしなければ何をしてもよい、という考えに結びつくからなのです。
だからと言って神を畏れろとは、ずいぶん大時代な……とおっしゃる方もおられるかも知れません。しかしここで私が神と言っているのは、クリスチャンであるとか仏教徒であるとかとは関係ないのです。神の存在がピンとこなければ大自然、人の世の真理、良心、あるいはあなたにとっての絶対的な存在と考えてください。それは誰の心の中にも必ずあるはずです。
子どもはすぐイヤになってしまいます。

父親が自信をなくしてしまった。

勉強しないだろう宗教のあるなしとは係わりなく、この謙虚な気持ちを人は忘れてはなりませんし、子供にはなるべく小さいうちにしっかりと教え、植えつけたいものです。
他人の子でも叱れるお母さんに【禁句】
どこの子かしら、迷惑ねえ。
あなたはあんな真似するんじゃありません【名句】ちょっと、そこの坊や0人の迷惑になることはやめましょうね
電車の中で騒ぐ子供の話が出ましたが、では、あなたのほうが迷惑をこうむる立場であれば、いかがでしょう。他人の子ではあっても勇気を持って「坊や、みんなに迷惑だし危ないから、走りまわるのはやめましょうね」
と注意できますか。それとも電車の中の男性のように、むのがせいぜいでしょうか。
苫々しく思いながらジロリと睨よく言われることですが、ヨソの子を叱れないのは、日本人の本当に悪い癖です。